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ブログ|2020.06.02
死ぬ時に何を想うかはその人の勝手
〜最後の記憶〜
パソコン画面の時計が18:01になるのを待ち、恵子は電源を落とし席を立つ。
携帯に何度も着信履歴が入っていた。姉からだ。
覚悟はしていたが、用件の予想は的中した。
恵子は迷っていた。
東京へ来てから5か月、まだ何も見つけていない。
今日は会社のビルの小さな踊り場にある、喫煙スペースに寄ってみる。
入社してひと月、これまでに立ち寄ったことはない。
間もなく愛煙家の社長夫人が入ってきたが、どうでもいいのだろう、何も言わない。
思い切って話かけてみる。
「お疲れ様です。実は母が亡くなったと連絡があったのですが、名古屋へ戻るべきか迷っています」
「帰った方がいいわよ」
間髪入れず返事が返ってくる。
「母に酷いことを言ったのが最後の言葉になってしまい、どんな想いだったかと思うと・・・」
「人が死ぬときに何を想うかはその人の勝手よ」
恵子は名古屋行きを決める。
水道橋から浦和へ戻り東京駅へ向かうと21時は過ぎる。名古屋到着は23時を過ぎるだろう。
名古屋郊外に住む姉に、到着は夜中になると告げる。
平日の夜だというのに東京駅の人の多さに驚きながら、一番早く名古屋に到着する電車に飛び乗る。
「死ぬときに何を考えるかは、その人の勝手」 同じフレーズが駆け巡る。
郊外の小高い住宅地にある家の鍵は開いていた。
広い玄関のすぐ右手にある日本間に母はいるだろうと予測する。
刹那、引き戸を開けたままになっている部屋の真ん中に小さな木の箱が横たわっていた。
部屋にはほかに誰もいない。玄関の薄明かりだけで、家は静まりかえっていた。
静かに母の顔を見る。まるで眠っているかのようだ。色白でいつもの美しい母だ。
恵子はきめの細かい母の肌が好きだった。嫌がる母に構わず、よく触っては叱られた。
沢山の想いがこみ上げる。次から次へと涙が溢れ出す。母とゆっくり話すのは、どれぐらいぶりだろうか。
別れの決意を自分に確認して、ゆっくり立ち上がる。
小さな箱に入った、美しい母の顔に触れる。いつもの気持ちのいい母の感触だった。
今のこの瞬間を、忘れることはないだろうと恵子は想う。
「母さん、またね」 頬にキスをする。
消毒のにおいがした。